神菜の本棚

日常の裂け目。

宝石箱と死。

 

私には、読んでいる本の中で心に残った部分を書き留めているノートがあります。全部でもう何冊になるだろう。

 

宝石箱から宝石を取り出して眺めるように、時々そのノートを開いてはお気に入りの言葉を手に取り、光にかざしたり感触を確かめたりして静かにうっとりする。そういう時間が好き。

 

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(こちらは今年の初詣のときの写真。)

 

いま、「横尾忠則 画境の本懐」という本を読んでいます。私は横尾忠則さんの絵、デザインしたポスターが好きで、常に注目しているのですが、ずいぶん前に読んだ著書がとてもよかった。

 

宝石箱ノートから取り出して引用します。

 

 

死者によって生者は守られ救われるが、同時に生者が死者を救うのである。最近ぼくは、ぼくのなかでこちらとあちらの世界の区別が曖昧になりつつある。ときどきぼくはあちらの世界からこちらを見ているような気がすることがあるのだ。まるで自分が死者であるかのようにである。

(引用/死の向こうへ/横尾忠則)

 

 

本当は死も生もないのかもしれないな。そんな気にさせられる素晴らしい一節でしょう。生は死を含んでいながら死に内包されてもいる。横尾忠則さんの死生観は、日々不安な私の人生に希望をもたらした。

 

ふと死にたくなることって、あるじゃないですか。だって、日常生活っておそろしいもの。事故にあったり病気になったりしない限り、明日も明後日もその次も淡々と続いていく普遍的な日々。それが目の前に果てしなく横たわっていることのほうが、本当はなによりもいちばんこわい。

 

でも私が生きていることによって救われる死者がいて、自分はいま死者の目で日常を見ているのだと思えるようになれば、そんな恐怖は徐々に霧散する、かもしれない。

 

生きることに怯えているうちは、死の向こうへは行けそうもないな。でも横尾忠則さんの絵を見ていると、いつかたどり着きたいその場所が、垣間見える瞬間があるんだよね。